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明智光秀も憂慮した細川忠興の「果断」な性格

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第57回

■行き過ぎる忠興の行動

 

 父藤孝が、和歌や能など文化への素養が高かったことも影響しているようですが、忠興には茶道の才能があったようです。忠興は茶道の祖とも言える千利休に認められるほどでした。

 

 また、利休が切腹を申し渡された際には、古田織部(ふるたおりべ)と二人だけで連座を恐れず見送りに出向くような恩義に厚い一面も有しています。

 

 一方で、上司で岳父(がくふ)でもある光秀から「無暗に降伏するものを殺してはならない」と言われるほどに戦場においては苛烈な面を持っています。

 

 本能寺の変の後に、細川家の存続発展のためとも言えますが、忠興は旗幟(きし)が不鮮明だった妹婿の一色義定(いっしきよしさだ)をだまし討ちにし、一色家のものを皆殺しにしたと言われています。これは豊臣方であることを示す施策だと思われますが、後の悪評の元になり、妹に深く恨まれて顔を切りつけられるほど、不和になったという逸話が残されています。

 

 忠興には、このような家族に対して厳然な行動を取った逸話が多々あります。関ヶ原の戦いにおいても、父藤孝と嫡子忠隆(ただたか)に対して「果断」過ぎる対応を見せています。

 

■関ヶ原の戦いと大阪の陣における「果断」

 

 関ヶ原の戦いにおいて、妻の玉(ガラシャ)が人質となることを拒否して自害した一方で、嫡子忠隆の妻春隆院(しゅんこういん)が実家に逃れたことを潔しとせず、忠興は忠隆に離縁するように迫ります。

 

 そして、これを拒否した忠隆を廃嫡(はいちゃく)してしまいます。これは春隆院の行動を理由に、前田家との縁戚関係を解消し、徳川家への忠義を示すための処置であったと考えられています。

 

 また藤孝が田辺城で討死せずに、天皇の勅命により講和開城したことを不満として、一時的に距離を置くようになります。これは性格的な部分もあるようですが、徳川家の心証を気にして「過度」な対応をみせていると思われます。

 

 さらに、弟の興元とも不和になり、興元は細川家から出奔しています。後に和解はするものの、2代将軍秀忠(ひでただ)の好意により、別家として独立した大名となります。

 

 忠興は徳川家への追従を徹底するために、江戸で人質となっていた三男忠利を秀忠の覚えがめでたい事を理由に後継者とします。

 

 代わりとして次男の興秋(おきあき)を江戸に送ろうとしますが、興秋にも出奔されてしまいます。興秋は大坂の陣で豊臣方として戦い、徳川家から赦免の知らせを受けたものの、忠興はこれを許さずに自害させたと言われています。

 

 忠興は親族に対しても一貫して「果断」な処置を施して細川家の安泰を得ますが、一方で身内の多くが離れていくことになりました。

 

■「果断」で得るものと失うもの

 

 忠興の「果断」な処置は徳川幕府でも高く評価され、信用を積み重ねることができ、忠利の忠勤と合わせて肥後一国を手に入れています。

 

 しかし、その一方で親族との距離は広がり、晩年はその寂しさを埋めるかのように、四男の立孝(たつたか)を溺愛し、これに自身の隠居領9万石を継がせようとして、忠利に反発されています。

 

 現代でも、自身の出世を優先し「果断」な処置で臨むあまりに、同僚や部下から疎まれたり、家庭を蔑(ないがし)ろにし、家族との不和を生む例が多々あります。

 

 ただ、権力者や実力者が入れ替わる不安定な政情の中で、細川家が大藩として生き残れたのは、忠興の「果断」な処置にあったと思われます。

 

 ちなみに、忠興は常に自分なりの美学を持っていたようで、黒田長政(くろだながまさ)による幕府への数々の対応や施策は、あからさまでおもねり過ぎだと痛烈に批判しています。

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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